「さおりんは、貧乏くじ女だよね」
とある先輩方のコメントです。
確かに…。私は貧乏くじ女。
大学不合格から始まり、肺結核、メンタル不調、離婚、倒産の危機、がんで手術
次から次へ出てくる困難((+_+))
あっ、ご挨拶が遅れました。
私のブログにお越しいただきありがとうございます。
札幌でWebの仕事をしている白藤沙織です。「さおりん」と呼んでくださいね。
「貧乏くじ女」にさらなる試練がやってきました。
60歳を迎えて、「これから人生はラクに生きたい」と思った矢先に、
職を失いました( ;∀;)。
これからどうやって生きていこうか…。絶望的になったときに、ブログやSNSを使って仕事をして人生を逆転してこうと思いました。
このブログには、その過程を具体的に書いていこうと思います。
なぜ、人生のマイナスを書こうと思ったかと言うと、定年退職や早期退職を迎える方の参考にしてもらえるかもしれないと思ったし、何よりも、私自身の励みになるからです。
よかったらお付き合いくださいね。
私の今の目標
2025年12月までに月収30万円、2026年12月までに月収100万円です。
基本情報
まずは簡単な自己紹介をします。

名前 | 白藤 沙織 (しらふじ さおり) ニックネームは さおりん |
---|---|
生まれ | 1964年6月18日 ふたご座 |
出身地 | 北海道の小さな町 浦臼町(うらうすちょう) |
学歴 | 北海道立滝川高校卒業 津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業 |
家族 | 娘。いまは独立しているのでひとり暮らし |
趣味 | ダンス、歌、お芝居(たまに女優) 愛読書はサザエさん、旅行。 文章を書くこと |
好きな食べ物 | 果物がないと生きていけない |
好きなアーティスト | J-HOPE(BTSのメインダンサー・ラッパー) |
「ゲラ子」と呼ばれていた頃

私の生まれた浦臼町は、ざっくり札幌から1時間半くらい車で北にむかったところにある、小さな農村です。
父は第二次世界大戦で樺太から引き揚げてきて、子どもの頃の夢をあきらめて家族を養った人。
母も浦臼町の農家に生まれ、兄弟・姉妹が多かったので大学進学をあきらめた夢破れた人。
だから、2人とも自分の叶わなかった夢や想いを、娘の私に託したようです。
幼い頃は、9坪しかない狭い団地に住んでいました。
それなのにアップライトのピアノがあり、私は5歳からピアノを習っていました。
母がピアノに憧れていたからです。
小学校にはいる前の私は、両親や親戚に愛されてのびのびしていました。
母の実家が好きで、よく遊びに行っていました。
母の実家は農家で、メロンやジャガイモ、お米などを作っていました。
メロンはおやつに出されることもあり、「高級品」だと知ったのは大人になってからです。
古いアルバムを開くと、いとこにおんぶしてもらった写真や、学生服を着せられて写っている写真があり、可愛がられていたのだなぁと思います。
私はよく笑う子で、「ゲラ子」と呼ばれていました。
当時の私のお気に入りの時間は、母が絵本を読んでくれる時間です。
毎日昼ご飯を食べたあと、「好きな本を持っておいで~」と絵本を読んでくれました。そして、毎日超お気に入りの同じ本を持っていき、「また、これ~、別の本を持ってきてよ」と母に飽きられてることもありました。本が好きになったのは、母のおかげです。
みんなと同じになれない小学生
そんな私も、小学校ではめちゃめちゃ苦労しました。
ひとりっこでのびのび育ったためか、私はルールを守るのが苦手で、みんなと同じように、決められたことを決められた通りにできないのです。
最悪だと思ったのは、私は成長がほかの子よりも早く、10歳で初潮を迎えたことです。
母はとても心配して、下着や生理用品を揃えてくれたのですが、まだまだ無邪気な子ども。
自分に何が起こっているのか理解できなかったのです。
好奇な目で見られたり、陰でコソコソ言われたりして、自分が悪いのかと暗い気持ちになっていきました。
胸が目立つからと、身体の線がでないような服ばかり着せられていました。
身体を隠さなきゃならないという呪縛は長く続き、Tシャツ1枚で外出しても平気になったのは50歳を過ぎてからです。呪縛ながっ!
そして、私がひとりっこだから「さみしい存在だね」と言われたり、色黒なので「色が黒い」とよく言われました。
ただそこに居るだけで悪い意味で目立ってしまう、からかわれる…。
「ゲラ子」は、だんだん委縮して学校では小さくなっていきました。
それでも、この頃にひとつだけよかったことがあります。
それは「書く」習慣が身についたこと。
小学校4年生のとき、担任の先生が「みんなと交換ノートをするよ」と、ひとりひとりにノーとを配ってくれました。
「めんどくさい」という子も多かったのですが、なぜか私は違いました。
学校は嫌いでしたが、「薄明りの雪」「犬とひまわり」「勉強ができるようになりたい」など、思いつくままにいろんなことをノートに書く時間が大好きでした。
世界が一変した10代
世界がガラっと変わったのは、中学生のとき。
「心の重し」が外れました。
というのも、
周りの子たちも背が伸び始め、私の身体が目立たなくなったのです。
それは私にとってはとても安心できること。
すると、不思議と勉強もわかるようになって、成績もよくなりました。
中学校では「エースをねらえ」に憧れて、軟式テニス部にも入りました。
テニスが好きすぎて、朝練をして、放課後の部活をして、そのあと夜にも練習することもありました。残念ながら、運動神経がよいほうではないので、あまり活躍はできませんでしたが…。それでも、夢中になって何かすることはとてもよい経験だったと思います。
一方で、ピアノからはどんどん遠ざかっていきました。
小学生の頃は「音楽大学に行けたらいいね」と言われたこともあります。でも、それは親の夢であり、私の夢ではなかったのですね。
この頃から、私は自分の意志をはっきり言うようになりました。
親の決めたレールに乗らない
周りが成長して目立たなくなった高校時代。
本来の私の性質が「ばーん」と出てきました。
進学先を決めるときに、両親と対立しました。
2人は「北海道の国公立の大学を卒業して、先生か公務員になること」を望んでいました。
でも、私には魅力に感じませんでした。
そして、高校2年生のときに、受験雑誌で運命の出会いがありました。
「アフリカ研究が専門」の、津田塾大学 小倉充夫先生の紹介記事をみつけたんです。
この先生に会いたい。
「色が黒い」と言われ続けたため、私は「黒」には良い意味がないことを小学生の頃から感じてました。なぜ「黒い」と悪いのか、理由を知りたかったのです。
津田塾大は私立大学で、受験科目は3科目だけ。しかも試験はすべて論文です。国立大学は5教科7科目も勉強しなきゃならないけれど、3科目なら「何とかなるかも」と思いました。でも、当時の私の偏差値では、津田塾の合格は絶望的だったんです。
以降、私は英語、世界史、現代国語だけ勉強することに決めました。
国公立大学は受けないことで、親とのバトルが始まりました。
とにかく、「東京に行きたい」の一点張りの私と、北海道の国公立大学にこだわる親に、共通点はひとつもありません。
どうしても津田塾に行きたい私は、自分で入試手続きをし、高校で斡旋してくれた飛行機とホテルを予約しと、親には何も言わずにどんどん進めてしまいました。
大胆な高校生です。
残念ながら1年目は大学受験は失敗しました。
そのとき、津田塾大学はあきらめそうになったのですが、父が「一度であきらめる人生を送るな」と言ってくれて、札幌で予備校に通うことができたのです。
散々けんかしてきたのに、最後の最後はお金の支援と応援してくれた両親には、今はとても感謝しています。
そして、一年後無事に津田塾に合格。
合格掲示板を見て、すぐに家に電話をしました。電話にでた母が「受かったね!よかったね!」と喜んでくれたほっとしました。
夢破れた20代

晴れて津田塾大学に合格、東京での生活が始まりました。
最初は人の多さに気後れしていた私も、少したつとボーイフレンドができたり、部活動を始めとそれなりの青春を送っていました。
就職を考え始めた頃、世界史が好きな私は、国際協力機関で働きたいと思うようになりました。
ところが…
大学4年生になったばかりの健康診断で、肺結核になっていることがわかったのです。
泣きながら親に電話をしたら、「帰っておいで」と言われました。そして、大学には籍を置いて、治療のために北海道の実家に戻ったのでした。
最初の診断では、2か月くらいで治るといわれていました。
「夏になったら東京に戻れる」ことが心の支えで、浦臼で過ごしていました。
しかし…
病状は思ったよりも悪く、なかなかよくなりません。薬を飲んで安静にしていることにだんだんつらくなってきました。
そして、大学に戻りたいとばかり考えていた私の神経は、おかしくなったようです。
真夏なのに寒いのです。
心が落ち着かなく、「就職したい」と言うばかりでした。
当時の私は休学するなど、怖くてできませんでした。一年浪人しているので、それだけでも就職に不利だととても焦っていたのです。
就職しなきゃと焦った私は、無理やり大学に復帰しました。
でも、病人の私にとって就職先を見つけるのは簡単ではありません。
その中で、病気になって東京で暮らすことに自信がなくなってしまい、北海道に帰りたいと思うようになりました。
こうして、国際協力団体で働きたいという夢をあきらめました。
1社だけ面接をしたいと連絡をいただけました。札幌にあるソフトウェアの会社です。
私はパソコンには縁がありませんでしたが、募集記事内の「マニュアル執筆」や「広告制作」という文字に惹かれて応募してみました。
それが大学4年生の12月です。
なんだかんだ言っても、日本経済は上向いているバブルの時代。
こんな状況の私でも、何とか就職できたのでした。
社会人になってから友だちに、「さおりってこんなに明るい人だっけ?」と言われたことがあります。大学4年生の時は、闘病と就職活動が重なって、暗かったのも無理ないですね。

せっかく結婚したけれど
やっと就職できたソフトウェア開発会社では、パソコンが操作できない私は四苦八苦。
プログラミングの研修を受けてもさっぱりわからず、泣いて帰る日もありました。
それでも、入社して1か月後、希望していたマニュアル制作の仕事に就くことができました。
IT業界の歴史は浅く、マニュアル制作はあまり知られていない仕事で、会社にノウハウはありませんでした。決まりごとが苦手な私は、マニュアルの仕事は性に合っていました。残業三昧の日々でしたが、毎日文章が書けるのが楽しかったのです。
病気もいつの間にか治っていた感じです。
20代・30代の若い人たちが多いかったので、社員旅行、花見、キャンプとイベントもたくさんありました。
その会社で娘の父親となる人と出会い、結婚しました。
そして、すぐに妊娠して娘が生まれました。
結婚した相手は子煩悩で、子育てには協力してくれる人。
「子どもは3人くらいほしいね」と話す幸せな生活のはずが…
私は大学時代と同じように、毎日が不安で不安でたまらなくなりました。
妊娠中から上司や仲間と会社を作る計画があり、出産後に会社を設立していました。
ところが、スタート時に大きな売り上げを見込んでいた仕事がなくなり、資金不足で給与がもらえないという問題が発生していたのです。
出産直後の不安に、起業直後の不安が重なり、精神が安定しなくなり、精神クリニックに通い、向精神薬を服用し始めました。
そして、結婚相手も実はメンタルがあまり強い人ではなかったようです。お互いに辛い生活だったのかもしれません。彼は子どもを預けて働いたり勉強に行く私を、受け入れ難くなっていたようです。彼は専業主婦の母親を理想としていたからです。
何とか状況を変えなきゃ…
私はいろいろな心理カウンセリングを受け始めました。
薬を止めたくて、四苦八苦しているうちに、ロンドンで行われた「メンタルヘルスのことを考える」国際会議に参加するチャンスが巡ってきました。
そこでは、私と同じように薬に苦しむ人、精神科に入院経験のある人たちとの出会いがあり、元気をもらって帰ってきました。
ロンドンから帰った後、すんなり向精神薬を辞められた私は、離婚の決断もできました。
その頃になると会社の業績も安定しており、子どもと二人で何とか生きていけると思ったのです。
インターネットのすごさを体験
離婚しても生活していける。
そう思ったのも束の間、今度は会社の業績が落ち始めました。
そして、資金ショートで倒産するかもしれないという事態まで追い込まれました。私は取締役だったので、何とかしなければなりません。
でも、ライター業を長年していて、営業はしたことがありません。
取締役も言われたからなっただけで、経営の勉強をしたこともありませんでした。
子どももいるし、何とかしなきゃと必死でした。
そんなときに、異業種交流会に行く機会があり、「ホームページとブログ」で営業する方法を知ったのです。
「これからは、自分から発信できない企業は置いていかれます」
という話を聞いて、これならできるかもと思いました。
ライターの私は、ブログを書くことは苦ではありませんでした。
当時「売れている」と言われていたホームページを真似して自社のホームページを作ったり、ブログを書いたりし始めました。
せっせとブログを書き続けるうちに、東京や大阪からマニュアルの仕事を受注できるようになったのです。会社や家でブログを書くだけで仕事がもらえるなんて、インターネットってすごいなと思いました。
その頃「女は仕事であてにできない。夜の会合には出られず、人脈が広がらないから」と男性の方から言われたことがあります。
確かに、私は子どもが小さいので、会合に出る余裕はありません。
すごく悔しくて、ますますホームページやブログに集中し、夜にせっせとブログを書き、mixi、Facebook、Twitterと活用するようになりました。
「インターネットは、弱者のミカタだ」と確信できたのもこの頃です。
家にいてパソコンを使って集客ができ、しかも受注までできるんです!
そのうち、出張に行っている様子はないのに、私が東京や大阪の会社と仕事をしているので、「どんなことをしているの?」と聞かれるようになりました。
そのたびに私は「ホームページとブログです」とニコニコ笑って言っていました。
そのうちに、「うちの会社のホームページを作ってよ」とか「ブログの書き方を教えて」とホームページの仕事をいただけるようになったのです。
マニュアルの市場は縮小するばっかりだったので、思い切ってWeb事業にシフトすることも決めました。
これ以降、順調に仕事は伸びていくように思っていました。
↑ホームページ活用講座の講師をしていた頃の写真です。
またまた、会社が危ない
ですが、また困難がやってきます。
資金繰りの問題が発生しました。会社の方針ですったもんだあり…、こんなにもめるのはもう嫌だと思いました。
そして、つい言ってしまったのです。「借入金は私が返します」
それで、私が社長をすることになりました。
「白藤さんが、そこまですることはなかったのに」
あとで何人かの社長さんにはあきれられましたが、こうと決めたら絶対にやるのが私です。
働きに働いて何とか会社も何とか黒字に転換できた頃、経営統合のオファーがありました。
がんばって社長業をしていましたが、私の本音は、みんなが安心して働ける場がほしいこと。それで、経営統合して私は再びただの取締役になることに決めました。
その直後に、大腸がんが発覚( ;∀;)
波風立たない人生はいつくるの。。。
貧乏くじ女、戦うことをやめたよ
統合した会社で、新しくWeb事業を始めようと私ははりきっていました。
でも、統合先の会社では、すんなりと受け入れてもらうことはできませんでした。
企業文化がまったく違うのですから、急に変わらないのは当たり前のこと。
ですが、私はこんな簡単なことも気づけませんでした。
それでも、ホームページを作り、マーケティングを学び、ブログやSNSで好きなことを発信してお客様の記憶に残るようにしよう、いい関係を作って仕事をしようと日々努力していました。
ブログとSNSを軸に、Web制作の仕事をすることはとても楽しかったです。
でも、少しずつ少しずつ社長との認識のギャップが広がっていったようです。私の中でも違和感が大きくなったときに、会社では不要な人間になりました。
簡単に言うと、「クビ」です。
またしても、貧乏くじ(;^ω^)
不条理なこともありました。
一方的に「不要だ」と言われても、こちらにも言い分もあります。
ですが、私はもう戦うことをやめました。株の問題で争っても仕方なかったのです。
すべてを受け入れようと思いました。
60歳になって、職がなくなって、どうやって生きていくのか…
と何度も考えていたとき、SNSで「好きな場所で好きな時間に働く」とか「ワーケーション」という投稿をみかけました。
24時間、闘いますか?
という昭和世代の世界観とは明らかに違います。
「この世界に私も行ってみたい。」
もう、会社経営のプレッシャーから解放されるのだから、もっと自由に働けるのではないかと思いました。
そうしたら、「心もお財布もぽかぽかに」という言葉をふっと思いつきました。
なぜなら、私はずっと信じているです。
インターネットは弱者のミカタ
ブログとSNS、ホームページが仕事の幅を広げてくれる
発信は身を助けると信じて、今の苦しい状況を一緒に脱出していきましょうね(^_-)-☆
好きなことをたくさんしながら、生きていくために。

さおりん